地域の魅力徹底研究セミナー

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  日本文化体験交流会「国際人のための江戸・東京文化講座」

   第3回報告
       富士松 松栄太夫さん


   「花街で生まれたトレンディな遊びと文化」

過去講座好評掲載中
* 第1回講座報告:桐谷エリザベス氏
* 第2回講座報告:安藤優一郎氏
* 第3回講座報告:富士松松栄太夫氏
* 第4回講座報告:安藤優一郎氏

* 第5回講座報告:富士松松栄太夫氏
第6回講座報告:小山周子氏
第7回講座報告:田中実穂氏
第8回講座報告:安藤優一郎氏


講演要旨をお知らせします。

●江戸の方位と守護神
 昔は都や町を形成するときに風水の思想が用いられました。まず北には玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎となり、また、それぞれ地理的なつくりとして北には山、東に川、南に水、西に道が置かれることが良いこととされていました。この条件が古来の都づくりに組み込まれていました。例えば京都御所で考えてみると、北には鞍馬などの北山地、東には鴨川、南には巨椋池(おぐらいけ)、西には丹波街道が続いており、風水の思想をもとに作られていることがよく分かります。
 では、江戸はどうでしょうか。実は大きな問題がありまして、それは「富士山」です。なぜ問題かといいますと、富士山は江戸から見て西にあります。本来、山は北にこなければいけないので大変困ったことになりました。そのためにどうしたのかといいますと、この四方位を90度反時計回りにして考えたのです。そうすると北には川、東には水、南には道、西には山がくることになります。まず北には人口の川、神田川を作りました。東には墨田川がありますが、その当時は海がまだ内陸の方まであったので川ではなく水として考えられました。そして南には東海道、西には富士山がきて、これで四方位をきちんと囲むことができたのです。また北東の表鬼門には浅草寺、神田明神を、南西の裏鬼門には増上寺、山王権現を置き鬼門からの悪い気を防ぎました。

「陰陽思想」 …自然界の万物は陰と陽の2気から生じること。
「五行」 …万物は木・火・土・金・水から成ること。
「風水思想」 …『気』の流れを重視(気の溜場に都市や住宅をつくることによ って優れた人々が生まれ育ち、富にも恵まれる)する考え。

☆方位を守る神
東:『青龍』 “川”
北:『玄武』 “山”
西:『白虎』 “道”
南:『朱雀』 “水”

「鬼門」…陰陽道思想における北東と南西方角にある、悪鬼が出入りする門。
⇒祈願寺として、北東にあった浅草寺を、南西には増上寺を造営。

「悪所」…社会の風俗を悪化させる元凶。(歌舞伎芝居や遊女屋等)
*建前 ⇒ 社会風俗を乱すため存在を否定
*本音 ⇒ 必要悪

●悪所(歌舞伎・遊里)の追放的配置
社会の風俗を悪化させる元凶のことを「悪所」といいます。特に華美や贅沢、仏教や儒教の教えを乱すものは全て悪所とみなされました。当時で言えば歌舞伎や遊郭といったものが悪所とみなされたのです。そのためにもともと日本橋近辺にあった吉原遊郭や二丁町(芝居小屋)は、鬼門を守護する寺社(浅草寺)の外へと移されました。


●文化や芸能の育成と発信
初めのころはそれなりに格式の高かった遊女や芸者たちも、時間の経過や人数の増加により低級化がすすみました。そのためいかに遊女や芸者たちを商品化していくかということが考えられ、流行発信源やイベント開催などのような政策がなされました。そこから芸者たちの集まる花街(かがい)や遊女たちの集まる遊里が発展していきました。そこからは良質な遊び文化も形成されました。

清遊(風流な遊び)>
・風流な文化人の集い
 書画、俳諧、連歌、文藝など
・自然景観、庭園鑑賞
 観月、雪見、観桜、納涼など
・高級料亭と高級料理
 深川平清、中洲四季庵など
・品格のある芸能鑑賞
 能、浄瑠璃など


会席料理・懐石料理についても、詳しい説明がされました。
富士松さんは、料理人でもあるのですよ。
富士松さん。さすが、和服が良く似合う

●遊里の歴史
 遊女の始まりは大阪の淀川、江口というところで多くの船が利用する船着場でした。そこで船客を相手にサービスを始めたのが遊女の始まりだといわれています。実際に大阪市東淀川区にある普賢院寂光寺には日本の遊女の始まりである江口君の肖像画や堂碑が残っています。その後、定住地を持たない遊行女として各地へと広がっていきます。戦国時代には武士たちの相手をするために軍に付いてまわりました。

 戦国時代が終わると遊女たちは行き場を失います。そしてまた下級武士たちも同じく職を失いましたが、武士たちはこの遊女たちを利用し傾城町(遊郭)を形成しました。かくして、定住地のなかった放浪の身から定住生活民へと変化していったのです。その後、遊女たちの店は妓楼(ぎろう)と呼ばれ、張見世という格子の向こうに遊女を置き、客に選ばせる手法が取り入れられました。また、吉原遊郭の中で特に格の高い遊女は「花魁(おいらん)」と呼ばれました。花魁になるには長年下積みを続け、さらに教養・知識も身に付けなければ一人前にはなることができませんでした。


●芸者の出現と花街芸能への変化
最初は遊女も格式のある者が多かったのですが、時代の移り変わりと共に遊女の低級化が進んでしまいます。その結果、何もできない遊女よりも、芸を持つ遊女が好まれるようになったのです。そこから遊女である花魁・女郎と芸を売る吉原芸者とに分かれていきます。

 その後は深川芸者の出現や、芸者への参入者の増加により再び芸者の低級化に悩まされました。そんな中、寛政の改革と天保の改革による風紀の粛清のため、岡場所(幕府に公認されていない娼家が集まっていた私娼地)は撤廃され、町芸者たちも摘発されました。行き場を失った芸者たちは柳橋や葭町(よしちょう)に花街を築きあげ、芸事一つで生活していくようになりました。このときに「芸は売っても身は売らない」という言葉が定着していきました。

 そしてこの流れが明治になってから新橋、赤坂、神楽坂にも広まりました。特に新橋、赤坂の花街は明治政府役人、軍部、出入商人の支援で隆盛になりました。



●明治時代になり外国からの文化が入ってくると、各花街の芸者業界に影響を及ぼすようになります。カフェーと呼ばれるホステスがいる喫茶店の出現や、洋風スタイルの流行により、芸者業は衰退していきます。その後は芸者も時代の波に乗り、スタイルを少しずつ変えていきます。モダン芸者と呼ばれ、レコード芸者やダンス芸者というものが生まれました。そのレコード芸者から派生し、お座敷唄ブームが起こります。第1次お座敷唄ブームは昭和10年頃で、戦争を挟んだ後、昭和25年に第2次お座敷唄ブームが起こります。それはだいたい昭和40年頃まで続きました。その後は大きな発展はなく現在に続いています。